ビクセルの「脚注物語」

発表者
寺島 政子
日時:
2016年9月2日
場所:
明治大学御茶ノ水校舎研究棟第6会議室

発表要旨:

 スイスの現代文学を代表する作家ペーター・ビクセルはコラムニストとしても知られているが、1999年に『ケルビン・ハマーとケルビン・ハマー』というビクセルにしては珍しい長篇を発表しているが、この作品は多くの批評家から「脚注小説」として取り上げられている。この「脚注小説」でビクセルはこれまでの作品の手法を取り入れると同時に、いままでになかったいくつかの試みをしている。
 まず第一に「脚注小説」とネーミングされているように、文学作品に皆無ではないが一般的とは言えない脚注を取り入れることによって同じ名前ではあるが別々の主人公をかかえる二つの世界(人生)を本文と脚注という形で同時に示している。この二つの世界は脚注は欄外であるということを示す線で隔てられている。ドイツ語の直接法で現実の世界を表し接続法Ⅱ式で虚構の世界を表している。また視覚的にもフォントの大きさを替えて、違う世界であることを示している。虚構の世界と現実の世界がドイツ語の話法の違いであるいは本文と脚注という形で対照化されているが、さらにケルビンハマーたちが生きる男性の人生と二人の妻たちが生きる女性の人生も本文と挿入話という形で対照化されている。妻たちの話の部分には脚注はなく、活字が斜体になっていることで視覚的にも男性たちの本文とは違うということが可視化されている。いくつかの人生が対象的に並べられていることと同時に、本来の註の意味あるいは本文と註の関係を考えてみることもこの作品を理解する上では興味ある視点になる。基本的に註は本文に対する理解を深める補助的な役割を果たす。しかし同時に本文の流れを妨げるという側面も持っている。一方で註にはこの作品で使われている脚註と並んで後註もあるが、後註であれば読み手が意図的に無視することも可能であるが、脚注であれば同時に視界に入ることから考えると、本文の流れを遮断する力は弱いが無視する力も弱いといえる。その点からもビクセルが二つの世界のコントラスト化のために「脚注」という手法を選択したといえるのではないだろうか。